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偏読日記@はてな

本を読んだりゲームをしたり、インターネットの話をしたりします。小説も書きます。

寒さは全てを等しく、無慈悲に包む - 「惑星CB-8越冬隊」

惑星CBー8 越冬隊

「それにしてもよく氷が割れなかったものだ。彼は、氷が割れないことをどうして知っていたのだ。
 経験だけで、あれほど自信を持てるものなのか」


「そんな自信など誰にもありはしないさ」

「ただ彼は簡単な論理に従ったまでだ。
 我々は予定通りに極点基地に到達しなければならない。さもなければ全員死ぬ。到達するためには、ここで遅滞なく開氷面をわたらなければならない。
 もし作業中に氷が割れて雪上車が水没すれば、彼は死ぬことになるが、そうなれば極点に誰も到達することができずに、どのみち全員死ぬ。
 彼はそれにしたがった」

小学生のころ、俺は探検を題材にしたノンフィクション作品を読むのが大好きでした。なかでも極地、北極や南極での探検行を描いた作品を良く読んでいたものです。
スコットとアムンゼンの極点到達競争。白瀬の無念。フランクリンの悲劇。
当時の技術水準では生存すら危うい極限の環境の中で、目的を果たすために悪戦苦闘する彼らの姿が幼い目には何かとても輝いて見えたものでした。



そんな俺が、この「惑星CB-8越冬隊」と出会い、内容を知ったら読まないわけ無いじゃないですか。

舞台は「地球」が銀河系のどの惑星を指すかすら定かでなくなった遠未来、銀河辺境の極寒の惑星CB-8
制御システムのトラブルにより軌道の狂った人口太陽の地上照射が、主人公たち越冬隊員の拠点である極点基地を灼くまであと17日。
前に立ちはだかるのは、前進基地から極点基地までの雪と氷に閉ざされたCB-8の大地2000km 
果たして主人公達は、期限までに極点基地に辿り着き、狂った人口太陽を止めることができるのか────

基盤になる世界設定はSF的ながらも、その本質は自然に挑む冒険小説。
幼いころに読んだ探検記さながらの情景が展開され、久しぶりに昔を思い出してしまいました。


……いや、「冒険」という単語をここで使うのは間違っているかもしれません。
「大自然の驚異」と行った陳腐な文句が色あせる、圧倒的すぎる自然描写は見事の一言。人間の存在など軽く超越し、ただそこにCB-8の雪と氷の大地は在るのです。
この、人間が存在することすら完全に否定する自然という本作の極点描写には頭を殴られるような思いでした。「自然に打ち勝つ」という概念を適用した時点で、征服できる対象としてみているわけで。
本作のCB-8の氷の大地の過酷さは、そんな人間の思い上がりを軽く一蹴していくのです。


そして登場人物達の死のあまりのあっけなさもこれに色を添えます。
本作があまり人物に焦点が当たる作品ではない事は確かです。それでも、中盤で重要な役割を与えられていたはずの人物が一瞬の判断の誤りから数行の描写で死んでしまったのには本当に驚きました。
思わせぶりな前振りも、死の瞬間の愁嘆場も何も無し。気がついたら死んでいる、それが極地。


この記事の冒頭で紹介した、雪上車で開氷面を越えるため橋を造りながら主人公達の会話。
本作を貫く冷徹すぎる極地の現実を、この一連の会話がもっとも象徴していると俺は思います。


前述の粗筋で述べたような遠未来の物語なのに、惑星の名前が「CB-8」であったり単位系がSIであったりするところもSF的道具立てに仕上げているのは巧いと思ったところ。
主人公である汎銀河人たちから見た「地球人」が、キャタピラ式雪上車やスノーモービルといった(主人公達の目から見て)旧式の技術を上手く極地の環境に適用させて生き抜く現在の世界におけるイヌイットのごときものとして描かれているのが面白いです。
CB-8そのものの特異な姿、そして主人公達が極点基地を目指す途上で遭遇する数々の驚異的な自然現象についても、科学的裏付けに支えられた豊かな想像力が発揮されています。



それにしても、数名だけで生き残りのために遠く離れた目的地へ向かうと言う本作のシチュエーションには思わずシャクルトン探検隊の故事を思い起こしてしまったり。(参考:アーネスト・シャクルトン - Wikipedia
あれも仲間をキャンプに残して4名で1300km島にある捕鯨基地まで救援を求めに行きますからね。

シャクルトンの手記を元にした「エンデュアランス号漂流記 」を以前に読んでいますが、あれも本作に近いものがありましたよ……
むしろ、本作が現実に起きた事態であるシャクルトン探検隊と近いという方が正しいのか。