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偏読日記@はてな

本を読んだりゲームをしたり、インターネットの話をしたりします。小説も書きます。

彼女たちは「主人公」に牙をむく -モンスター化する「ヤンデレ」たち-(2008年ヤンデレ作文応募原稿)

雑記 萌え オタク

電撃 - 『ハーレム天国だと思ったらヤンデレ地獄だった。』最新情報が到着! 美少女たちとのバラ色学園生活が待っている!?【電撃PS特報】

いまやPS3全年齢向けゲームで「ヤンデレ」を売りにした作品が出る時代。

2006年くらいから追いかけ始め、2008年くらいまでは全貌がぎりぎり把握できたので、「ヤンデレ発展の歴史」をまとめたり(萌え属性「ヤンデレ」関連の歴史をまとめてみた - 偏読日記@はてな)それを同人誌に寄稿したり(属性YD Vol03 「一万人のヤンデレ大特集」)していた俺にとって、こうも広がったのかと感慨にふけってしまいます。
2005年に萌え属性の一つとして名付けられ誕生してからもうすぐ10年。10年近く続けばオタクの共通認識になるってことなんでしょう。

そんなことを考えながら以前に書いた「ヤンデレの歴史」テキストを見返していたら、2008年付けの「ヤンデレ」に付いての未公開論考記事を発見。記憶を紐解いてみると、どうやら以下の記事で話題にしたヤンデレ作文&イラストコンクールに応募した際の原稿でした。

応募先のマグマニのサイトが閉鎖していますし、時間も経ったので公開してみます。
時は2008年、いまだ「ヤンデレ」が認知の途上にあるころの論述には、かなり一般化したいま読み返すと新鮮な部分が色々ありますね。


2008年マグマニ夏休み特別企画 ヤンデレ作文&イラストコンクール応募原稿

彼女たちは「主人公」に牙をむく -モンスター化する「ヤンデレ」たち-


いまやオタク界の「萌え属性」の一つとなったと言っていい「ヤンデレ」。この言葉を聞いたとき、貴方が思い浮かべるのはどんな娘だろうか。
なんにせよ、そこに共通するのは深すぎる想いが故に病んでしまう娘達であることは確かだろう。

では、その「病み」の向かう対象となるとどうだろう。対になる「主人公」だろうか。恋の鞘当ての相手である他の女性キャラクターだろうか。それとも愛しの彼との愛を妨げる世界そのものだろうか。
本稿は、「ヤンデレ」の病んだ末の狂気が向かう先の変遷、それに伴うヤンデレと言う概念を取り巻く環境の変化、そしてヤンデレの未来についてを、各種の「ヤンデレ」関連作品の内容とその感想により論じるものである。



1,発生当時の「ヤンデレ

ヤンデレ」という概念が発生したのは2005年中頃から後半にかけてのことである。当時、その中心となったのは桂言葉と芙蓉楓の二人であった。
ここで注目したいのは、概念を根付かせるきっかけになったゲーム版スクールデイズ桂言葉だが、彼女は決して主人公たる伊藤誠に対して直接その狂気を向けることはないと言うことである。
彼女の名を一躍高めたいわゆる「鋸エンド」、鮮血の結末エンドでは彼女の凶刃が向かうのは恋敵である西園寺世界のみであり、誠に対しては一切の凶行を行っていない。
目の前で恋人を殺害するという行為そのものが凶行だという論もあろうが、言葉の意志としてはあくまでも誠を傷つけるつもりは毛頭ないのである。
もう一つの言葉が凶行を行うエンド、「永遠に」でも彼女の行為は世界と誠の前で投身自殺を行いショックを与えることにより二人を「永遠に」幸せにしないと言うものであり、直接的に誠に対して危害を加えるというのとは方向性が異なっている。


また、ヤンデレ発展の初期を支えたもう一人、「SHUFFLE!」の芙蓉楓に付いても、主人公すなわち恋愛の相手に対して危害を加えることはない。あまりにも有名すぎ、そのシーンだけが一人歩きした感のある「空鍋」も、妄信的に主人公=凜を信頼するが故の暴走であり、狂気の矛先は全くと言って良いほど主人公へとは向いていない。
その後も彼女が凶行に及ぶのは亜沙先輩に対してのみである。凜に対する夜這いもあるが、拒絶されればそれ以上の行為に及ばない時点で、亜沙に対する暴力(と、言っていいだろう)とは区別するべきである。
夜這いはあくまでも行き過ぎて居るとはいえ恋愛行為の行き着く先であり、その動機が「病み」であろうが行為そのものは主人公を傷つけようとしているわけではないのだから。


更に初期の「ヤンデレ」シーンにおいて流行と概念の定着に大きな役割を果たした我妻由乃も、その矛先を決して主人公に向けることはなかった。主人公雪輝の為なら殺人すら厭わない彼女も、愛しの彼に向けては愛情しか示していない。主人公が由乃を恐れるのは彼女の深すぎる愛情と、それ故の行為があまりにも行き過ぎたものであるからであり、けして自身が由乃の凶行の対象となっているからではないのである。


しかし、「ヤンデレ」発展初期においても主人公に牙をむくキャラクターが皆無であったというわけではなかった。例えば「ひぐらしのなく頃に」の竜宮レナ、「ダブルキャスト」の赤坂美月などが挙げられる。
が、これらはあくまでも傍流であり、彼女たちが「ヤンデレ」を代表するキャラクターとして取り上げられることは殆ど無い。特にレナに関しては、ヤンデレの範疇に含まれないとの意見がかなり初期から出ており、彼女をヤンデレに分類することを拒否するファンも数多く存在する。
作品の内容的にも彼女の狂気は主人公の妄想によるものが大きく、また恋愛感情が介在しているわけではないため他の「ヤンデレ」キャラクターとはかけ離れており、「凶行を行う美少女」というヤンデレの一面のみが取り上げられて適用された結果だと言えよう。


また、ヤンデレの発明後に「再発見」された穂村愛美も病みの矛先が主人公に対するものではあるが、その行為はあくまでも愛故のものであり、主人公もそれを受け入れているというのが後年のモンスター化したヤンデレとは異なるところである。


2,流行と、「病み」の矛先の変遷

流行の初期に「ヤンデレ」として定義された彼女たちは、狂気を主人公=恋愛感情の対象に向けることはなかった。だが、「ヤンデレ」が萌え属性の一つとして一般化していくとき、ここに変化が起こる。
彼女たちはその「病み」を、主人公へと向けるようになるのだ。


例えば、2007年の中頃に発売された、初めての「ヒロインが全員ヤンデレ」18禁同人ゲーム「やんデレ」では最終的に全てのヒロインが主人公に対して凶行を働くこととなる。
そもそも相互の愛情による繋がりの描写すら殆どなく、一方的に体の関係のみ求める主人公と、そんな彼を偏愛するあまり手に掛けるヒロイン達。そこにあるのは桂言葉や芙蓉楓がその身をもって確立した「ヤンデレ」とは似て非なるものである。


ヤンデレの女の子に愛されて眠れないCD」シリーズにもこの傾向はあてはまる。
本CDに登場するヤンデレ達は、その「病み」の過程は様々と言え、全員が最終的に凶行の対象として主人公=聞き手を選んでいる。ここで発端となる「病み」のきっかけが三角関係や社会からの疎外、依存などと多岐にわたる上で結果が全て同一というのはある種の異様さすら感じさせている。


この2作以外にも流行しきった後に現れたヤンデレ娘達、特に二次創作やオリジナル作品で「ヤンデレ」であることを前面に押し出した作品にこういった現象は更に色濃く観られる。
例を挙げれば、2008年の春から夏にかけニコニコ動画で盛んに行われた前述の「眠れないCD」の音声を加工した二次創作作品では、もはや完全に理解不能な怪物としてのヤンデレという立ち位置が確立している。
彼女たちの狂気は愛が深すぎる故に陥った悲しいものではなくなり、ただ「おかしい人」として消費されるだけのものに堕してしまっているのだ。



3,判りやすい「ヤンデレ」像と、「病み」の矛先の変化

なぜこういった「病み」の矛先の変遷が起こったか、私はこれを「ヤンデレ」が一般化し、わかりやすいパッケージングかが求められた結果だと考える。


既存のキャラクター達の共通要素を抽出して作られた「萌え属性」は、いつしかそれ単体がキャラクター的要素を持つようになる。
たとえば、「ツンデレ」の象徴たる「べ、別にアンタの事なんて好きでも何でもないんだから!」、「妹」の「お兄ちゃんだいすき!」、「メイド」のご主人様への服従と奉仕。元のキャラクター達が持っていた「萌え属性」の要素のみが取り上げられ、独立した表現として純粋化されていく。
この流れはもちろん「ヤンデレ」も例外ではなかった。その一般化の過程において「ヤンデレ」らしい振る舞い、らしい台詞、らしい容姿等が元となったキャラクター達から抽出され統合されていったのである。


しかし、こういった単純化された表現で「ヤンデレ」を表すにおいて問題となることがある。それは彼女たちの「病み」の向かう先である。
複雑な人間関係や環境の結果「病む」元の作品での彼女たちと違い、単純化された象徴的「ヤンデレ」にはこういった背景が存在しない。
結果として「病む」対象は必然的に存在する主人公=読み手となる。もともとこれら単純化された「萌え属性」の象徴達には主人公=読み手と彼女たちの二者しか存在しない世界に生きるものが多いので、これはむしろ必然と言えよう。


こうして概念が一般化し、元となる作品のキャラクターではなく、象徴たる抽象的な「ヤンデレ」像からその萌え属性を知るものが増加すると、象徴から具体への逆転が起こることとなる。
その結果、流行後に作られた「ヤンデレ」を売りにする作品は「凶行を行う美少女」という部分のみが共通し、その矛先を初期とは違えるものとなっていったのである。



4,我々はモンスターを受け入れるべきか否か

愛しすぎて殺したくなる、と言う初期のヤンデレから、凶行を行う部分のみ取り出し、更にその向かう先を主人公に限定した近年のヤンデレ
オタク作品に登場する女性キャラクターのある種のステロタイプである、「理由もなく平凡な僕のことを好きになってくれる女の子」の究極の姿、身も心も全て捧げて愛してくれる娘達の行き着くところがこれなのだろうか。
究極に閉じた二人だけの愛の世界には確かに美しさもあるが、逆に「凶行を行う美少女」という面のみを取り上げていったとき、そこに残るのは単なるモンスターである。
近年の「ヤンデレ」を消費する視線が、あまりにも単純化され、単に理解できなく恐ろしいものを、まるで珍奇な怪物を眺めて喜ぶが如く消費する様になっている様に私は危惧を覚える。


ツンデレ」があまりにも矮小化されたものとして世の中一般に認識され、変化の過程こそが重要な点だという事が抜け落ちて表面的な態度だけに落とし込められたように、「ヤンデレ」も「狂ってさえいればよい」となり、それこそ登場した瞬間から「病んで」いる、ただの頭のおかしい女の子に堕されてしまう可能性すらある。
いや、むしろもうそうなっていると言った方が良いだろう。


この現状を変えるものは何か。そもそも変えることは出来るのか、いやそれは望ましいことなのか。
ヤンデレ」の流行初期から追ってきたものとしては、矮小化されてしまった現状が嘆かわしいものであることは確かである。けれど、こうしたわかりやすい象徴化がなければ流行もなかったこともまた確か。


この時勢に「古参」ヤンデレファンの出来ること、それは単純化されすぎた「ヤンデレ」像に当てはまらない「ヤンデレ」を発掘し創作し紹介する、ただそれだけなのだろう。


ハーレム天国だと思ったらヤンデレ地獄だった。
ハーレム天国だと思ったらヤンデレ地獄だった。