偏読日記@はてな

本を読んだりゲームをしたり、インターネットの話をしたりします。小説も書きます。

あの夏、俺は萌え絵でゲシュタルト崩壊した

引っ越した先での生活も落ち着き、精力的にこのBlogを更新していた2007年の夏。あの頃、俺はとある強迫観念に取り憑かれていました。


「全ての『萌え絵』は座標点列とそれを結ぶ曲線の集合体として解釈可能であり、よってあらゆる『萌え絵』はスクリプトで自動生成が可能である」


あの夏に俺の脳内を支配していた、今こうして振り返ると狂気としか思えないこの考え。それに至るまでには幾つかの段階がありました。
きっかけは2006年の夏頃に、なぜ俺は(なぜオタクは)あれほど似通ったものである「萌え絵」の間の差異を識別できるのか不思議に思ったこと。
「萌え絵」からパーツ単位で無意識のうちに何らかの法則を読み取り、解釈した結果として差異を感じるのではないか。
それなら、その差異を感じさせている要素を抜き出すことが出来れば、「萌え絵を数値的に解釈する」事が出来るのではないか、そう思ったのが全ての始まりでした。


……そこからどんな「萌え絵」にも共通する座標点(例えば「鼻の頂点」「あごの先」「頬の変曲点」「瞳の四隅」)を探していくうちに、気がつけばスクリプトを使って座標点を並べてその間を曲線で繋げば「萌え絵」を自動生成できる!! と思い込んでいたのはまさに若気のいたりとしか言いようがありません。2年半だけど。
ついでに自動生成スクリプトの仕様について当時ノートにメモしていたものを公開。
moedraw.pdf
どうみても黒歴史ノートだよこれ……


もちろん賢明な読者の皆さんにはお判りでしょうが、こんな試みが成功するはずはありません。似通っているように見えてもその実は個々の「萌え絵」には細かい部分で非常にバリエーションがあり、また座標点の配置を数式化することも俺の数学的能力を遙かに超えていました。
そうして初夏から晩夏までの数ヶ月を過ごし徒労の後、俺には何も残らなかった……のであればどんなに良かったでしょう。


「萌え絵自動生成」を目指した無駄な努力が俺に残したもの、それはどんな萌え絵を見ても座標点とそれを結ぶ曲線の集まりにしか見えなくなったと言う最悪の症状でした。
甘く見てはいけませんよ? とらのあなの同人誌コーナーに足を踏み入れたら、周りに並ぶ可愛い萌え絵表紙全てが無機質な曲線の集合としてしか捉えられなくなって逃げ出したのはとても嫌な思い出です。


普段の生活でも油断は出来ません。例えば本屋に行ったとき。何気なく棚を見まわし、エロゲー雑誌・アニメ雑誌が置いてあったりするともうアウト。あの手の雑誌の表紙にはよく「萌え絵」の女の子の顔が大写しになっているので、それを心構えをしていない状態で目にしてしまうと頭が勝手に座標点と曲線の集合体として解釈と解析を始めるんですよ。ライトノベルの表紙なども油断が出来ません。


そう言った解釈を無しに素直に「萌え絵」を観ることが出来るようになるまで一月ほどかかった覚えがあります。意図してなんとか押さえ込んではいるものの、ふとしたきっかけに今でもこの症状はたまにフラッシュバックしますね。


そして「借」「化」の文字がゲシュタルト崩壊しやすいと言われているように、「萌え絵」にも同様の存在はあるようで。
なぜだか全く判らないけれど能美クドリャフカの顔がいまでも本当にダメです。あの目が! あの蒼い目が俺には何か空虚な洞穴のように見えてしまう。
下手だなんて言いたいわけでなく、むしろキャラとしては俺のかなり好みなタイプであるのに何故か昔の傷が蘇り「座標点と曲線の集合体」として自動的に解釈してしまうためまともに彼女を観ることが出来ません。辛すぎる。



どうやら一度でも目が開き、そういった風に「萌え絵」を観ることが出来るようになるともう戻れないようです。何かに開眼するのならもっと有益なことにしたかったよ……



続編→ 1日1枚のトレスで萌え絵がベジェ曲線の集合に見える病気が治った!!(※個人の感想です) - 偏読日記@はてな