偏読日記@はてな

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9年は長い。そんな当たり前のことに今更気づいた。 - ウィザーズ・ブレイン(8)落日の都(上)

ウィザーズ・ブレイン〈8〉落日の都〈上〉 (電撃文庫)
ウィザーズ・ブレイン〈8〉落日の都〈上〉 (電撃文庫)


「かわいい男の子とかわいい女の子が出てきて、物理の力で戦う未来のファンタジー」(著者インタビューより)な本シリーズ開始もから9年、通算で14冊目。まさかここまで来て、1巻の神戸崩壊がつながってくるとは……
予め張られていた伏線を回収したと言うより、物語を進めていく上で「原点」たる1巻の出来事を向き合う必要が出てきたとでも言いましょうか。
例えるならTVでよくある「危機一髪映像100連発」なんかで「この映像のあと、彼は無事に救出された」なんてうやむやに良い話にしてしまうような1巻ラストも、「ウィザーズ・ブレイン」世界がおかれた過酷な現実から考えれば単なる読者への欺瞞のようなもの。中盤以降での展開を思えば、こうなるのは必然だったのかもしれません。


開始当初は能力バトルものとしての色彩がかなり強かった本シリーズですが、中盤以降の政治劇へのシフトにともない今回は"魔法士"どうし、すなわち主要登場人物のどうしのまともな戦闘シーンはほとんど無し。「自分の周りだけ物理定数を改変して(人間が)光速の90%で移動」「近接空間内の全物質の座標・運動量を計算して短期未来予測」「身体を構成する全原子の量子力学的存在確率をゼロにして壁抜け&あらゆる攻撃を回避」等々の物理学ベースの無茶な能力を駆使し独特の文体で描写される本作の戦闘シーンはそれだけで大きな魅力なので、それが見られないのは少々残念でした。
こちらも、主要登場人物が作品世界の各勢力に取り込まれ/協力し自分だけで動ける立場では無くなっているためなのである意味では必然。不条理な世界の理と個人で向き合わねばならなかったシリーズ初期の彼ら、すなわち孤立無援で戦わなければならなかった彼らはもう居ないのです。


しかし、 状況や人物の立場のがいくら変わろうとも扱うテーマ、すなわち「誰かを救い、同時に誰かを犠牲にすること」という単純な部分は ずっとぶれていないのですよね。この記事を書くついでに改めて?・V巻を読み返してつくづくそう感じました。
それもこれも、?巻の後書きの「作者の中ではこれは巨大な物語の?エピソードとして位置づけられています」という言葉が表すように最初からシリーズ全体の構成が決まっているからなのかもしれません。


ちなみに、あの元神戸市民の女の子が本当に1巻で登場しているのか判らなくなり、本棚から引っ張り出して調べていたら該当のシーンの最初に下のような地の文が入っていて思わず息を呑む俺が。

10年は長い。そんな当たり前のことに今更気づいた。 (1巻P.97)

単に作中で10年前を回顧するシーン、どうと言うことのない描写です。しかし1巻が出たのが2001年であることを思えば、なんだか作中の心理描写と自分の立場がリンクするように思えて不思議な気分になってきます。ほぼ1年に1冊という今の刊行ペースだと、完結する頃には確実にシリーズ開始から10年以上たってるよなあ……