『ゲーム』の中こそ僕らのリアル - 「ナツノクモ」(8)
でも──でも私は思うんです。
ここがニセモノの世界で
ここにいる私達は 本当なお互いに何も知らないアカの他人同士だとしても、
もし私が力の限り戦って大切な皆を守ることができたなら、
途切れることのないホンモノの絆が残って、ほんのわずかな瞬間だけでも、本当の、家族みたいに なれるんじゃないかって。
- 作者: 篠房六郎
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2008/01/30
- メディア: コミック
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視覚・触覚・聴覚、それら全てに働きかけるインターフェイスを通じ、まるで現実世界と見まがうばかりの高度な環境をプレイヤーにもたらすネットゲームが普及した世界。
ゲームにはまり込みすぎた廃人プレイヤーを、再ログインの気力を奪い尽くすまで(ゲーム内で)殺し続ける「戻し屋」の凄腕プレイヤー トルクは、自らの雇い主である精神科医を通し奇妙な依頼を受ける。
それは『動物園』と呼ばれる奇妙なプレイヤー集団を、彼らが契約しているボード(サーバー)の契約期限切れまで護衛するというものだった。
心に病を抱える者同士が、ゲーム内で疑似家族を構成することによりお互いを癒すという趣旨で始まった「動物園」だが、彼らはそのメンバー内から多数の自殺者を出した上に、主催者自らが現実世界での家族を殺害するという最悪の結果に至り、「良識的」な一般プレイヤー達からゲーム内の秩序を守るため排除されようとしていたのだ。
護衛の期限は三週間。夏休みが終わるまで。
ゲームの中で育む信頼、ゲームの中で育てる友情。ゲームの中で迎える死。ゲームの中で繋がる家族。全てが偽りの世界で、それ故に築ける絆を、『動物園』の彼ら、そしてトルクは見つけることができるのか──
「この打ち切り感!!そしてこの打ち切り感!!」
普段は書かないあらすじ紹介を自分で一から書いたり、「ハトのおよめさん」風に叫んだりと錯乱しているのもあまりにも惜しい終わり方をしているから。せめてボード契約切れの夏休みの終わりまで描いてくれると予想していたのに、その遙か手前で8巻完結ですよ……
「書き残したことは色々あれど」という後書きの言葉や、諸々で流れる出所の怪しい噂が全てもっと続くはずだったと示唆していますけど、とにかく現実として終わっているからにはそれを受け入れるしかないわけで。
顔も名前も知らない、現実ではただの赤の他人同士だからこそ、その言葉や約束は絶対。ある意味では演じるキャラクターでもあるゲーム内での発言だけが全てであるからこそ、逆に真の信頼関係が成り立つと言ったところでしょうか。
殺されてもキャラクターのデータを失うだけ、死のペナルティが遙かに現実より軽い世界の中で、大切な誰かを守るために身代わりとして命を張る。そう言った行為が逆説的に現実世界並み、いやそれ以上に強固な信頼関係を生み出すといった下りは本当に良くできています。
その意味で本作のネットゲームという舞台仕立ては、外見や社会的立場と言ったもの全てを取り去った生の心と心のみの関係を描くと言うのに非常に適していると言えましょう。
そして、彼ら「動物園」メンバー達を、「頭のおかしい病人達」として、ゲームの社会的イメージ向上のために害虫の如く排除にかかる一般プレイヤー達の残酷さ辺りも本当に見事。
これについては1〜5巻の感想で詳しく書いていますが、善意の名の下に自分たちと違う者を笑顔で排除していく彼らの姿は、「健全」な人達とは何かと言うことと突きつけてきます。
こういった面が非常に良く書けているからなお、逆に心に傷を抱える『動物園』のメンバー達がやがてやってくるボードの契約切れという楽園の終わりに直面し、大団円とは行かなくともそれぞれに何とか現実世界と折り合いを付けていくところまで描いてほしかったです。
それでこそゲームの中での絆を描くことに意味はあったのではないかと思うのですよ。
正直、ラストの見開きのゲームに没頭する某キャラクターの「中の人」の姿には本当に背筋に寒気が。「嫌なことばっかりの現実(オフ)にも、こんな良いことがあったなんて」なんて言わせておいて、その現実を遮蔽してゲームの殻に閉じこもるあの姿は狂気すら感じましたよ。
「動物園」メンバー達はみな判りやすいハッピーエンドが用意されるような境遇にはないとはいえ、あれではあまりにも救われない……
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気がつけば「ナツノクモ」までの篠房六郎作品を全て持っていると言う信者ぶりだったので、このやりきれない気持ちを何とかするべく最新作の「百舌谷さん逆上する」もそのうち買ってこようと思います。